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山崎行政書士事務所

遺言書




窓の外には初冬の冷たい風が舞っている。乾いた枯葉が歩道の端を転がる音だけが聞こえ、私の胸中の空虚を妙に増幅させる。 その午後、私は行政書士として、ある高齢者を訪ねることになった。彼は**山根(やまね)**という名で、九十近い年齢にもかかわらず背筋がやや伸び気味だった。でも、その頬はこけて、目の奥にかすかな暗さを宿している。 「遺言書を書きたいんだ」 そう言ったきり、彼はまるでこの世を既に見限ったようにうつむいて笑ったのが印象的だった。かの人の笑みはどこか、陰気な諦めか、または密やかな愉悦か。私は思わず背中をすくめてしまった。

 山根の住む古い家に通されると、奥の部屋からかすかに灯りがにじみ出ている。障子の薄紙があちこち破れかけ、そこを通じて外の白っぽい光が入り込む。 彼はやけに痩せた指先を組み合わせながら、**「財産なんて、ほとんど誰にも渡したくない」**と呟いた。 私は思わず言葉を失う。ふつう人は、誰かに何かを遺そうとするはず。けれど、この男は違う。「おまえらなんぞ死んだあとの私の形見を、ぺらぺら触るな」――そうでも言いたげな、いわゆる“偏屈な老人”の表情ではあった。 けれど、その眼の底には異様な宿命感のようなものが見え隠れしていて、それが私は気になって仕方がなかった。

 「先生、あなたは死についてどう思います?」 戸惑いながら、私は曖昧に笑って逃げる。「そうですね……誰にでも訪れるものですし……」 すると山根は低い声で笑った。「そう、みんな同じ答えだ。『誰にも訪れる』。あぁ、まったく。私がここまで死を引きずって生きてきたことなど、誰も興味がないさ。あなたも同じでしょう?」 そのとき、私はひどい孤独の匂いを嗅いだ気がした。彼がこれほどまで突き放すような言い方をするのは、その背後に血の通った哀しみが潜んでいるからではないか。 まるで、生まれながらにして世界から見放されたかのように、誰の温もりも知らずに来たかのように。 私はどうしてもそのまま引き下がれず、「そんなに何も遺したくないんですか?」と問い詰めてしまう。心のどこかで苛立ちを覚えて。

 すると山根は、しばらく黙った末に、ささやくような声で、「自分を愛した者は誰もいない。私だって誰も愛せなかった」と、言葉を絞り出す。 「死を意識するときこそ、人は何かを誰かに譲るものじゃないんですか?」と、私はさらに問いかける。けれど彼は肩を震わせ、「そんなおためごかしは要らない。死んでまで、何が譲るだ。ちっぽけな財産なぞ、私の屍と一緒に消えるがいい」と呟く。 その言葉があまりに暗く、まるで底の見えない水底にでも沈んでいるような気分にさせる。私はその場で法的な説明を続けようとするが、口から出たのは、何の味もしないありきたりの文言だった。「でも、お一人でも遺す相手がいれば……」 山根はただ首を振る。その姿は、闇を抱えた魂が、世の光から背を向けているかのようだ。

 外へ出ると、一面に広がる冬の灰色が、私の心をどこか奪うように思える。山根の孤独――まるで死を先取りしたような拒絶――が、私自身の胸の奥に底知れぬ恐怖を植えつけたようだ。「もし死の直前に、人は皆あのような境地になるのだろうか?」 “何も、遺さなくていい”――その言葉の、あまりの殺伐さと自嘲。それは私を痛烈に射貫く。自分が今のうちに、何を残すべきか。死が近づいたとき、私もまた同じように全世界を見放し、同時に自分も世界から見放すのだろうか。 法も、書類も、ここまで乾ききった心の救いにはならないのか。まるで書類の印判の朱色が、薄暗い闇に呑み込まれてしまうかのような光景が、頭をよぎる。

 (エピローグ) 翌日、山根は「いや、あなたに頼むのは間違いだった。やはり誰にも渡したくない」と言い張り、結局、遺言書の作成を断念するかたちになった。 私は最後まで惜しむように、「本当にそれでいいんですか?」と尋ねたが、返ってくるのは冷たい沈黙のみ。 まるで死そのものが、まだ生きているこの男の魂を先取りしているようだった――何もかもを拒み、墓の中へ抱え込むつもりなのだろう。 私は布団の端にしゃがみ込んだ彼を、何か言えぬまま見つめるしかなかった。その背が小刻みに揺れていたが、涙か笑いか判じ難い。 外は冬の薄暗い空。雨が降るわけでもなく、晴れるわけでもなく、ただ淡い灰色の大気があたりを包んでいる。私の足元の影が、不思議に長く伸びていた。その先には死の気配か、それとも虚空の冷たさか。 死を意識するたび、人は何を遺すべきか――いや、そもそも遺すものなど存在しないのかもしれない。そんな苦い思いを噛み締めながら、私は書類鞄を抱え、静かな廊下を足音もなく引き返した。

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