桜と永遠
- 山崎行政書士事務所
- 1 日前
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幹夫は初老の男である。春の日差しに誘われるように、彼は静岡市中心部の駿府城公園へと足を向けた。用事のついでにふらりと立ち寄ったこの公園では、折しも桜がちょうど満開を迎えていた。
石垣の上から咲きこぼれる満開の桜並木がお堀の水面に映り込む(駿府城公園) 石垣の上から淡紅色の雲のように垂れ下がる桜並木は、公園の堀の水面にも影を落としている。幹夫は思わず足を止め、その美しい光景にしばし見とれていた。微かな風に乗って花びらがひらひらと舞い落ち、水面に小さな波紋を描いて消えていく。その光景は現実の中にありながらもどこか幻想的で、まるで現在と過去が柔らかく溶け合っている空間のように感じられた。
幹夫は再び歩き始め、桜のトンネルのような小径をゆっくりと進んだ。足元には散り敷いた花びらの絨毯が柔らかく続き、踏むたびにかすかな感触が靴越しに伝わってくる。聞こえてくるのは遠くで笑う子どもたちの声や、小鳥のさえずりと、時折吹き抜ける風が枝を揺らすサラサラという音だけだった。周囲には花見客の姿もあるが、不思議とその喧騒は耳に入らず、幹夫の意識は桜と静けさの中に溶け込んでいくようだった。
ふと遠くに目をやると、春霞の彼方に白く雪をいただく富士の山頂がかすかに浮かんでいるのに気付いた。幹夫はしばらく足を止め、その悠久の静けさをたたえた姿に見入った。数百年の昔からこの城跡を見守ってきたであろう霊峰も、今日の桜の賑わいを優しく見下ろしているように思えた。
やがて、彼はひときわ太い幹を持つ桜の古木の下にたどり着いた。幹夫はその幹にそっと手を触れ、深い皺の刻まれた樹皮の感触を掌に感じながら見上げる。青空を背景に枝々を広げるその古木は、公園の中心で悠然と時を重ねてきた生き証人のように見えた。「・・・よく来たね。」
不意に聞こえたかすかな声に、幹夫ははっとした。周囲を見回しても自分以外には誰もいない。それでも確かに今、誰かの言葉が耳元で響いたのだ。「ここですよ」と穏やかな声が再び言った。幹夫はその声が自分の目の前にある桜の古木から発せられていることに気付き、驚きに目を見開いた。
「あなたは…桜の木…ですか?」幹夫は戸惑いながら声の主に問いかけた。自分が木に話しかけているという不思議な感覚に半信半疑である。
「そう、私は桜の木。ここで長い間、生きているものです。」古木の声はゆったりと答えた。その声音は風に揺れる枝葉の響きを含んでいるようで、幹夫の心に穏やかに染み込んでくる。「驚かせてしまいましたね。でもあなたがこうして耳を澄ませてくれれば、私たち樹木の声も届くのです。」
幹夫はそっと息を吐いた。次第に心が落ち着いてくると同時に、胸の内から様々な思いが湧き上がってくるのを感じた。「私は今年で六十を超えました。こうして桜の下に立っていると、自分の人生が一瞬の夢のように思えて……。あなたに比べれば、人間の一生などあまりにも短い。」ぽつりと彼は本音を漏らした。
「確かに、人の世は儚いものかもしれません。」古木の声が応えた。「私も毎年花を咲かせ、そして散らせます。花の命ははかなく短い。しかし不思議なことに、春が巡るたびに新しい花を咲かせる度に、私は過ぎ去った昔の春のことを思い出すのです。人も同じではありませんか?過去の記憶があるからこそ、今こうして咲く一輪一輪が愛おしい。そしてあなたがここにいることも、決して偶然ではないのでしょう。」
古木の言葉に導かれるように、幹夫はそっと目を閉じた。次の瞬間、吹き抜ける風が一段と強くなり、桜の梢がざわざわと音を立てた。
ゆっくりと目を開けると、幹夫は自分の目を疑った。公園の景色がどこか違って見える。石垣は今と変わらぬ姿で佇んでいるが、周囲の建物の様子が現在とは異なっていたのだ。空気の色までもが若干昔の記憶の中にある色合いに感じられる。
「…君は…」幹夫は、古木のそばにいつの間にか佇んでいた一人の若い男に気付いた。その青年は紺色のスーツに薄手のコートをまとい、幹夫がかつて所有していた古びた革鞄を手に提げている。はっとして、幹夫の胸が高鳴った。忘れもしない。あれは三十代の頃、仕事に悩んでいた自分が愛用していた鞄ではないか。
幹夫が言葉を失って立ち尽くしていると、その青年——いや、かつての自分自身——がこちらに歩み寄ってきた。青年の顔には若き日の自分の面影がありありと浮かんでいる。幹夫は自分の頬が強張るのを感じたが、不思議と恐れはなかった。ただ懐かしさと戸惑いに胸が震える。
「こんにちは」と青年が先に口を開いた。その声は確かに自分の若い頃の声そのもので、幹夫の耳に鮮明に甦ってきた。「あなたも桜を見に来たんですか?」
幹夫は一瞬喉が詰まったようになったが、なんとか声を絞り出した。「ああ…そうです。桜があまりにも綺麗なので、立ち止まっていました。」
青年は穏やかに微笑んだ。しかし、その瞳の奥にはどこか不安げな影が差している。「ええ、とても綺麗ですね…。」と答えたあと、一瞬言葉を飲み込み、ためらうように続けた。「毎年こうして桜が咲くたびに、嬉しいはずなのに、なぜか少し切なくなるんです。咲いている間はあんなに美しいのに、すぐに散ってしまうから…。子どもの頃は、ただ綺麗だと思うだけだったのに、不思議ですね。」
幹夫は青年の言葉に深くうなずいた。「わかりますよ。その気持ちが。」柔らかく答える。「歳を重ねると、美しいものを見るたびになぜだか涙もろくなってね…それはきっと、過ぎ去った時間や失われたものを思い出すからでしょう。だけど——」幹夫は満開の桜を見上げた。「それでも桜は毎年咲いてくれる。散ってしまっても、また来年、新しい花をつけるでしょう。僕たちも同じだと思うんです。たとえ時間が過ぎていっても、過去の記憶があるから今がある。そしてその今の経験が、また未来の自分を支えてくれる…私は最近、そんなふうに考えるようになりました。」
青年は意外そうに幹夫を見つめた。「…まるで、未来の自分から言われているみたいだ。」ぽつりと漏らしてから、恥ずかしそうに笑った。「すみません、変なことを。初対面なのに、どうしてでしょう。あなたと話していると、不思議と心が落ち着くんです。」
「私もですよ。」幹夫も微笑んだ。自分自身に向けるように、優しい眼差しを青年に注ぐ。「あなたはきっと大丈夫だ。この先、いろんなことがあるでしょうが…今日こうして感じた桜の美しさを、どうか忘れずにいてください。それを覚えているかぎり、あなたはどんなときも、自分を見失わずにいられるでしょう。」
青年は真剣な表情で幹夫の言葉に耳を傾けていたが、やがて顔をほころばせた。「ありがとうございます。不思議ですね、初めて会ったのに…まるで父に励まされたときのような気持ちです。」そう言って照れくさそうに頭をかいた。
ふと周囲が静まり返った。気がつくと、幹夫の立つ公園は先ほどまでとはまた違う様相を呈していた。石垣の向こうには、いつの間にか白い天守閣が夕空を背景に聳えている。幹夫の知る現在の公園にはない光景だった。西空には夕映えが広がり、桜の花びらは黄金色の光を受けて輝いている。公園の一角では、人々が提灯の明かりの下で宴を楽しんでいるのが見えた。だが、不思議なことに誰一人として幹夫に注意を払う者はいない。まるで彼の存在に気付いていないかのようだった。
「ねえ」と、小さな声がして、幹夫は足元に目を向けた。そこには、小さな女の子が一人、散った花びらを集めるようにして遊んでいた。少女は幹夫を見上げ、あどけない笑顔を向けた。「こんばんは。桜きれいだね。」
「こんばんは。本当に綺麗だね。」幹夫は優しく答えた。少女の無邪気な様子に、心が温かくなるのを感じる。「桜が好きなのかい?」
「うん! だいすき。毎年咲くの、待ってるの。」少女は花びらを一枚つまんで見せながら言った。「すぐ散っちゃうけど…でもまた来年咲くもんね。だからいっぱい覚えておくの。お花が散っちゃっても、ちゃんと覚えてれば、ずっと一緒だよね?」
幹夫ははっと息を飲んだ。胸の奥に鋭くも温かな何かが走ったような気がした。「…そうだね。君が覚えていれば、桜はずっと君と一緒だ。」
少女は嬉しそうにうなずいた。ちょうどその時、遠くから若い女性の声で「早くいらっしゃい」と呼ぶのが聞こえた。少女は「はーい!」と元気よく返事をすると、「おじちゃん、バイバイ!」と小さな手を振った。幹夫が微笑んで手を振り返すと、少女はぴょこぴょこと駆けて行き、夕闇の中へ消えていった。
暮れなずむ宵闇に浮かび上がるライトアップされた桜 静かな夕闇が駿府城公園を包み始めていた。日中の喧騒は遠のき、聞こえるのは微かな風が桜の梢を揺らす音と、遠く街の気配がするだけである。一片の花びらがひらりと舞い降り、幹夫の掌にそっと落ちてきた。幹夫はその小さな花びらを指先で大切に挟み、目の高さまで持ち上げて見つめる。花びらは夕暮れの淡い光を透かし、微かに黄金色に輝いていた。
幹夫はゆっくりと目を閉じ、静かに息を吸った。そして再び目を開けると、薄紺色の空に一番星が瞬いているのが見えた。彼は手の中の花びらを胸の高さで包み込むように握りしめる。桜の古木がさらさらと枝葉を揺らし、まるで子守歌のような音を立てた。幹夫は穏やかな微笑を浮かべながら、しばしその場に静かに佇んでいた。過去も未来もすべて包み込んだこの一瞬の永遠を、掌の花びらとともに感じながら——。
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