パナコの青春 ― 冬陽のコーダ
- 山崎行政書士事務所
- 1月25日
- 読了時間: 8分

秋の文化祭が終わり、校内の喧騒が嘘のように静まり返った頃。静岡の街には、冬の気配が少しずつ濃く漂いはじめていた。朝晩の空気は肌を刺すように冷たく、通学路の街路樹が落とす木洩れ日さえ、どこか儚い。高校三年生としての時間も残りわずか――そんな焦りと期待が入り混じる季節だ。
あの「秋宵のファンファーレ」で文化祭ライブを締めくくった陽菜(はるな)、真司(しんじ)、麻里(まり)、そして**颯太(そうた)**の四人は、日々募る受験勉強に追われながらも、どこか心にぽっかりと穴が空いたような感覚を抱えていた。 ――大きなステージを終えたあとは、まるで祭りのあとに似た淋しさが押し寄せる。次にみんなで音を出せるのは、いつになるのだろう。卒業までに演奏の機会があるのかもわからない。そんな不安と少しの寂しさが、冬の冷え込む風とともに胸をかすめていた。
ある放課後、四人は久しぶりに軽音部室へ集まった。部活動というよりは、一息つきに顔を出す――そんな緩やかな気持ちで。 窓の外には、夕刻が近づくにつれ灰色の雲が低くたれ込め、まるで冬の入り口を告げるカーテンのよう。陽菜はギターケースを脇に置き、厚手のセーターの袖をまくりながら言った。「……なんか、ここへ来るのも久しぶりだね」
真司はドラムスティックを持たずに、ただ古い椅子に腰かけていた。かつてあれほど熱心に練習していた姿は今はないが、指先でスティックを回しながら、どこか落ち着かなさそうに見える。「受験勉強ばっかりやってるとさ、やっぱり音を鳴らしたいって気持ちになるんだよな」
麻里はベースのソフトケースを抱えたまま、窓際に立って校庭の方を見下ろした。冬枯れのグラウンドでは運動部の生徒たちが防寒着を着込んで走り回っている。「私も最近、指が鈍ってきちゃって……ベースに触れてないと落ち着かない」
颯太は持参したノートパソコンを机に置きながら、小さな声で付け加える。「僕もピアノやシンセに触れない日が続くと、調子がおかしくなるんだ。だけど……時間がないんだよね、どうしても」
四人の空気がどこか沈みこみそうになったそのとき、部室のドアが開き、軽音部の顧問である原田先生が顔を出した。「ああ、お前たち、まだ帰ってなかったのか。……そうだ、ちょうどいい」 渋い声とともに、手にしたプリントを差し出してくる。それは「卒業イベント」についての案内だった。
毎年恒例の催しで、卒業式の前日に三年生による「フェアウェルコンサート」が体育館で行われるという。合唱やダンス、弾き語りなど、出し物の形式は自由。もちろん、バンド演奏でも構わないのだが……。「ただな、三年生は受験真っ只中だろ? 参加するなら勉強との両立はしっかりしろよ。ま、お前たちなら大丈夫だと思ってるが」 そう言って原田先生は照れ隠しのように視線をそらす。
その日の帰り道、校門を出てからも四人は自然と同じ道を歩いていた。空には薄暗い雲が溜まったままで、朝からの気温をほとんど上げる気配もない。「卒業イベント、どうする?」 陽菜が尋ねると、真司はマフラーに顔を半分隠しながら腕を組む。「正直、悩むな……練習時間も限られてるし、受験はまだ途中だし」
麻里は「うちの親も厳しくてね」と苦笑いを浮かべる。「でも、最後にもう一度みんなで演奏できるなら、やりたいよ。文化祭が終わってからも、ずっとそう思ってた」
颯太がふと顔を上げ、彼方のビル群に目を凝らす。うっすらと見える「静岡パナコ」の看板は、どんよりした雲の下でも相変わらず街を見下ろしているようだった。「……僕も、後悔だけはしたくない。勉強も大事だけど、あの屋上で初めて演奏したときから、ずっと音楽は僕らの中心にあるから」
真司は小さく息を吐き、バンドメンバーの顔を一人ずつ見渡す。「……じゃあ、やるか。俺たち、もう『これで終わり』とか言いながら、何度も続けてきたじゃん」 その言葉に、陽菜の口元が緩む。みんな同じことを考えていたのだと感じ、心が少しだけ軽くなる。
限られた中でも最大限の準備をしようと決めた四人は、放課後の短い時間をやりくりし、部室へ通い始めた。勉強をしながら合間に楽譜を整え、互いの進捗をチャットでやりとりして曲を仕上げる。 まるで期末テスト前の嵐のように、焦りと充実感がないまぜになって胸を満たしていく。
そんなある日の放課後、外は陽が落ちたばかりで紺色の空に星が瞬き始める頃。部室には珍しく顧問の原田先生も顔を出し、「大きな音は出せないからアコースティック中心で練習しろ」と釘を刺されながらも、彼らは笑って過ごしていた。 真司はブラシや小さめのドラムパッドを使い、麻里はベースの音を抑えめに。陽菜はアコースティックギターを爪弾き、颯太は鍵盤のボリュームを抑えながら静かにメロディを探る。
「……なんだか懐かしいね。最初にパナコの屋上でやったときも、アコギで始まった曲があったよね」 麻里がぽつりとつぶやく。「うん。あのときはまだ、何がなんだか分からないままステージに立ったっけ」 陽菜は思い返すように指を動かし、爪弾くコードを変えていく。指先からこぼれる音に、夏の日差しや秋の夕空、冬の寒気といった過ぎ去った季節の記憶が宿っているような気がした。
そうして迎えた卒業イベントの当日、三月の足音が近づく頃。 夕暮れ時の体育館には、照明を落としたステージと、そこに集まった在校生や先生方、そして出演を待つ三年生たちの静かな熱気があった。もうすぐ高校生活を終える彼らのために、下級生たちが軽食ブースや小さな展示を用意し、送り出す側と送られる側の入り混じる特別な空間だ。
「次は三年生バンド、陽菜たちの演奏です!」 司会の後輩が紹介すると、小さな拍手が沸き起こる。陽菜はギターを抱え、真司と麻里、颯太を振り返るように視線を送った。真司はスティックを握りしめ、麻里は少し緊張した面持ち、颯太は静かに深呼吸をしている。
客席の照明が落とされ、ステージに当たるスポットライトが彼らを包む。最後の文化祭からそう時間が経っていないはずなのに、その間に起きた悩みや不安がたくさん胸の中を駆け巡る。――でも、だからこそ鳴らしたい音がある。
ドラムのカウント――今回はブラシがスネアを優しく撫でるような始まりだ。陽菜のアコースティックギターが静かにコードを刻み、麻里のベースが低く柔らかなラインを描く。颯太のキーボードは、ピアノの音色で一音ずつ慈しむように加わり、音の世界が一気に広がる。
歌い出す陽菜の声はやや震えているが、そこには嘘のない真っ直ぐな想いが乗っていた。受験や卒業、バラバラになるかもしれない未来――けれど、この瞬間だけは「一緒に音を作っている」という確信がある。 真司が少しずつブラシを強くし、リズムが高まっていく。麻里は低音を支えながら、客席へと顔を向ける。その先には馴染みのクラスメイトの笑顔や、顧問の原田先生が腕を組んで聴いてくれている姿があった。
曲がサビに差し掛かる頃、ライトがふっと広がる。体育館の天井が高く感じられ、音がゆっくりと余韻を描いて客席を包む。まるで冬の夕空から差し込む最後の陽光が、春を告げているかのようだ。 ――やがて、ラストコードが鳴り止むと、しんとした静寂のあとに、大きな拍手が湧き起こった。
息を切らせながら、陽菜はそっとマイクに唇を寄せる。「……ありがとう。みんなのおかげで、私たちはここまで音を続けられました」 それ以外の言葉は出てこない。感謝しか思いつかないのだ。それでも、拍手は絶えず、彼女の想いを受け止めるかのように響き続けた。
イベントが終わり、夜の校舎から外へ出ると、少し冷たい風が彼らの頬を撫でていく。夜空には冬の星々がくっきりと瞬いていた。「終わっちゃったね」 麻里はギターケースを持った陽菜にそっと言う。陽菜は微笑み返しながらも、夜空を仰いだ。「でも、まだ終わりじゃない。私たち、ここからもきっと進んでいくんだと思う」
真司はスティックをバッグに収めながら、空気の冷たさに肩をすくめる。「音楽は、これからもそれぞれの場所で続けられるよ。受験が終われば、また違う形で集まれるかもしれないし」
颯太はキーボードケースを背負ったまま、少し遠くに目をやる。そこには変わらずそびえる「静岡パナコ」のビル群が、夜の街に明かりを添えている。「パナコの屋上や地下ホールで演奏した日々、絶対忘れられないな。これが僕たちの青春なんだって、はっきり言えるよ」
街を見下ろすパナコの看板は、まるでそっと頷くように淡い光を灯していた。あの日、あの夏の夕方に始まった物語が、いくつもの季節をまたぎ、冬の終わりにさしかかった今でも、変わらずそこにあり続ける。
――卒業、受験、そしてその先の未来。彼らにはまだ具体的な形は見えないが、心に響く音がある限り、どこへ行っても繋がっていられるはずだ。
四人はゆっくりと歩き出す。それぞれの家へと帰るために、同じ校門を出て夜の街へと溶け込んでいく。星明かりと街灯に照らされた道は、確かに冬の冷たさを孕んでいるけれど、先ほど鳴らしたばかりの音の余韻が、彼らの心を温かく包み込んでいた。
――これが終わりではなく、新しい始まりの合図なのだと信じながら。 冬の夜空の下、静岡パナコの灯りがいつもと変わらず、そっと青春の旅立ちを見守っていた。
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