パナコの青春 ― 桜霞のエピローグ
- 山崎行政書士事務所
- 1月25日
- 読了時間: 6分

冬の終わりを告げる風が、静岡の街から白い寒気を少しずつ追い払っていく。暦の上では春を迎え、街路樹の枝先には小さな蕾が顔を覗かせはじめた。あの冬の日に高校最後の演奏を終えた陽菜(はるな)、真司(しんじ)、麻里(まり)、そして**颯太(そうた)**の四人。それぞれが進路の結果を待ちながら、卒業式を目前に控えていた。
卒業式当日。朝から少し肌寒いものの、校門には記念撮影をする生徒や保護者の姿があふれ、どこか華やいだ空気が漂っている。大きな垂れ幕に書かれた「卒業式」の文字を眺めながら、陽菜は胸元のリボンを少しきゅっと結び直した。「……みんな、どこにいるかな」 心の中でつぶやきながら、校舎の正面へと向かう。その先では、真司が友人と談笑しているのが見えた。いつものスティックは持っていないが、どこか落ち着かなさそうに手を動かしている。
一方、校庭の隅では麻里が写真部の後輩と何か話し込んでいるようだ。後輩のカメラを借りて何度かシャッターを切る姿は、ちょっぴり照れくさそうでありながらも楽しそうだ。遠くから声をかけようとしたそのとき、さっと人混みの向こうに消えていった。
陽菜が体育館に入ると、式典の準備で慌ただしい先生たちが行き交っている。奥の扉を見やると、ちょうど颯太が入ってきたところだった。手には封筒を握りしめており、視線をこちらに気づかせてはいないらしい。少し戸惑ったように立ち止まったまま、あたりを見渡している。「そっか、合格通知……届いたんだ」 そう思った瞬間、陽菜の胸は一気に高鳴る。自分の進路は決まったが、彼やほかの仲間たちはどうなのだろう。皆それぞれ違う未来を描いている。それでも、この瞬間だけは「同じ場所にいる」という事実が、少しだけ心を温かくしてくれる。
式が始まると、思いのほか厳粛な空気に包まれた体育館。来賓の祝辞や校長先生の長い言葉が続くなか、四人はそれぞれ自分の席で静かに耳を傾けていた。 証書の授与が進み、やがて自分の名前が呼ばれる。ステージに上がって受け取ると、まるで今まで背負っていた重さが少しだけ軽くなるような、不思議な感覚に襲われる。――この学校での日々が、今まさに完結へ向かおうとしているのだと、実感する瞬間だった。
式が終わると、拍手が体育館を満たす。誰もがそれぞれの想いを胸に、卒業生として最後の時間をかみしめている。袴姿やスーツ姿の親たちのカメラのフラッシュが、雨上がりの光のように何度も瞬いた。
その後、クラスごとのホームルームが終わり、歓声や涙が入り混じる廊下で、四人はようやく顔をそろえた。「みんな、おめでとう。卒業――だね」 陽菜が微笑むと、真司も「お疲れ」と肩をすくめる。麻里はかすかに赤い目元で笑い返し、颯太は少し気恥ずかしそうに視線を落とした。
「……お互い進路はどうなった? 大丈夫なの?」 真司が最初に切り出すと、麻里が意外にも晴れやかな表情で答える。「私、第一志望の短大に合格したよ。音楽とは直接関係ないけど、地元には残るつもり」「そっか、よかったな」 真司もうれしそうに頷く。その視線は、「じゃあお前は?」と陽菜や颯太を促しているようだ。
「私もなんとか合格した。大学では音楽サークルが盛んらしくて、ちょっと楽しみにしてるんだ」 陽菜が笑顔を見せると、麻里は「いいなあ」と目を輝かせる。
そして、皆の視線は自然に颯太に向けられた。彼は照れ隠しのように頭をかきながら、そっと封筒を取り出す。「僕も第一志望の大学に合格できた……。ちょっと遠いけど、上京して音楽を続けるつもり」
「上京……そっか。そっちでキーボード弾くの?」 陽菜が問いかけると、颯太は静かに頷いた。「うん。大学でも作曲とかやりたいし……バンドを組むかどうかは分からないけど、何かの形で続けたい。……真司は?」
真司はどこか照れくさそうに笑いながら、「俺は専門学校に進むよ」と言葉を続ける。「ドラム一本でやっていけるかどうか正直分からないけど……機材やサウンドエンジニアの勉強もしようと思ってる」「わあ、すごいね!」 麻里がぱあっと顔を輝かせる。彼の選択は意外だったが、どこかしっくりくる気もした。
廊下を出て、昇降口のそばで外へ続くドアを開けると、冷たさの残る風がさっと四人を包み込む。昼間の陽射しが淡く射し込む校庭には、まばらに残った在校生たちが「おめでとう」と声をかけてくる。 視線を遠くにやると、ビル街の向こうに「静岡パナコ」の看板が小さく見えた。あの屋上で始まった彼らの物語は、この一年でいくつもの季節をまたいで、今日の日を迎えた。
「……もう、卒業なんだね」 そう呟く麻里の横顔は、どこか晴れやかでもあり、切なげでもある。「でも、また集まろう。いつになるか分からないけど、絶対に」 陽菜が言うと、真司も軽くスティックを取り出してくるくる回し、「もちろん」と頼もしく笑う。
ふと、颯太が後ろを振り返る。誰もいない昇降口、階段の向こうに続く廊下――この建物は、彼らが何度も音を合わせた軽音部の部室を抱えている。そこでは嬉しいことも、苦しいことも、すべて音に変えてきた。「ねえ……ちょっとだけ、部室に寄っていかない?」
四人は最後の思い出を確かめるように、誰もいない部室へと足を運んだ。すでに器材は片付けられ、棚の上には卒業する先輩方への寄せ書きが置かれている。窓から差し込む柔らかな日差しに、埃の粒子が静かに舞っていた。 真司はドラムセットの跡が残る床を見つめ、軽くかがみこんで手を触れる。そこには何度も踏みしめたペダルの痕がうっすらと刻まれていた。
麻里は壁に立てかけられている譜面台を見つめながら、指先を動かしてベースのフレーズを思い出す。颯太はキーボードの置かれていた場所をじっと眺め、陽菜はギターストラップがいつも引っかかっていたフックに手をかける。
――何も音の鳴らない部室なのに、確かにここには無数の音が染みついている気がする。笑い合った日々、泣きたくなるほどの失敗、胸が高鳴る瞬間。すべてが彼らの「青春」という名のプレイリストに刻まれていた。
「いつか、また音を合わせようね」 陽菜が小さく呟くと、全員が同じように笑みを浮かべた。部室の窓から見える校庭では、春の陽射しがゆっくりと雪解けのように広がっている。季節はまだ遠慮がちにしか進んでいないけれど、もうすぐ桜が咲き誇るだろう。
学校を出て、それぞれの家路へと向かう道すがら、ふと足を止めた陽菜たちは「静岡パナコ」の看板を仰ぎ見た。あの屋上ライブが始まりだった。夢中で駆け抜けた日々が、パナコとともに、ずっと彼らを見守ってくれていたような気がする。
これからは、異なる場所で新しい生活が始まる。勉強や仕事、人間関係……そして音楽。悩みながらも、きっとそれぞれのペースで前に進むだろう。「また、いつか――」 麻里が呟く言葉に、誰もが声には出さずに「うん」と頷く。
風が春の匂いを帯びて吹き抜ける中、四人は小さく手を振り合いながら、少しずつ離れていく。街のざわめきの中に溶け込むように足音を重ね、ビルの影をくぐり抜け、やがて見えなくなるまで。 パナコの看板はいつもと変わらない輝きで、そんな彼らを照らし続けていた。
――この旅立ちが「終わり」ではなく、次なる「始まり」であることを、彼らはまだはっきり言葉にはできないかもしれない。けれど、あの屋上や部室で鳴らした音の温度を胸に抱いて、桜霞に包まれる季節へと一歩ずつ踏み出していく。
春霞の空に、四人の思い出と未来がそっと重なり合い、消えずに残る「パナコの青春」。いつかまた、どこかで同じ音を鳴らす日のために――彼らは今、新しいスタートラインに立っている。
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