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山崎行政書士事務所

不正の連鎖




 はじめて依頼を受けたとき、私はほんの小さな違和感を覚えただけだった。あのときにもう少し勇気をもって拒絶できていれば、こんな末路に辿り着かなかったのかもしれない……と今さら思う。だがそのときの私は、ただでさえ食うや食わずの状態で、依頼を断るなんて恐ろしくてできやしなかった。

 薄暗い事務所の机に突っ伏していると、外から射す朝の光だけが、私の心をきしきしと痛めつける。やけに冷たい金属のような光――しかし、それは私を救うものなどではない。むしろ私の不安を白日の下にさらす灯火のようなものだ。

 依頼は単純に見えた。 書類を作ってくれ、というだけ。私はいつものように、行政書士の肩書を用いて、書面にサインを貰い、公的機関に提出すればよい。しかし、内容をよく読めば、あからさまに不自然な記載が散見される。何かある――そんな薄ら寒い疑念が頭をもたげた。

 けれど、その時点で私は断らなかった。**「これくらいなら、グレーゾーンの範疇だ」**と、自分に言い聞かせたのだ。それが私の弱さの始まりだった。

 依頼人は、見た目こそ穏やかだが、言葉の奥に隠しきれない焦燥と下心がちらついていた。**「大丈夫ですよ、先生。こんなの皆がやってることですしね」**としれっと言い放つときの顔――私はそれを直視したくなかった。

 法に触れかねない書類を作成する。そんなこと、誰しもが忌避するはずなのに、私はなぜか引き受けてしまったのだ。もしかすると報酬に釣られたのだろうか。あるいは「みんなやっている」と言われると、なんとなく自分だけが清廉であることに対する孤独感が押し寄せるからだろうか。

 「自分は大した人間ではない」――そんな思いが、私の心を突き動かす。誰かが不正をして、みんなに認められているのなら、そこに正義を訴えられるほど私は潔白じゃない。むしろ波に乗り遅れるのが怖い……。そんな醜い心で引き受けたと認めるのは、あまりに惨めだった。

 やがて事態は転がり落ちるように崩壊した。依頼者が行政機関から厳しい処分を受けることになったと、噂が飛び込んできた。 当たり前の帰結だと頭では分かっていた。しかし、その報せを聞いたとき、私の背筋を貫いたのは、単なる恐怖ではなく、漠とした絶望感だった。

 「私は何をしてしまったのだ?」――法と倫理の間をふらふらと歩むうちに、誰にも見えない暗黒に一歩入りこんでしまったのか。 世間では「下請け書類を作った行政書士も同罪だ」などと囁かれ、まるで私の名前すらも灰色の影が付き纏うようになった。これまで蓄えてきた小さな自尊心も、あっけなく吹き飛んでいく。

 私は心底後悔しながらも、しかし自分自身に対する苛立ちがどうしようもなく膨れ上がる。「分かっていたのに、なぜ断れなかった?」と思えば、「だって自分は何の力も持たない凡庸な人間だ」と居直りたい気分にもなる。

 不正に加担したという罪悪感と、それを避けるほど強い意志がなかったという惨めさ。それらが夜毎、私の眠りを蝕み、何度となく目を覚ましては、暗闇の天井を見つめる。 まるで細い糸で吊るされた人形のように、誰かの意のままに踊らされ、結果がこうして災いを連れてきた。「私は本当に救われる日が来るのか……」 そんな淡い希望さえ、いまは持てない。

 それでも人生は続く。 私が法を学び、行政書士となったときの小さな誇り――「正しさを支える仕事だ」――はもはや見る影もない。だが、依頼者が処分を受けた今、私の責任を求める声も日に日に増している。 「あの書類を作成したのはお前だろう?」という冷たい批難が、背後でヒソヒソと語られる。もし私が善意の装いを捨て、最初から悪人の面で行動していれば、こんなに傷つかずに済んだのではないか。 甘ったるい自責と、淡い自己憐憫がせめぎ合い、結局、私は何も決めきれずに事務所の狭いソファで丸くなる。

エピローグ

 ある朝、少し霧のかかった空気の中、私は意を決して事務所のドアを開ける。薄光が室内を照らすが、私の視界はまるで靄に包まれているかのよう。 ふと机に手をつき、息を整えながら、「それでも、次の依頼を……」と呟く。どんな依頼が来るかは分からないが、私はただ前に進むしかない。そこに救いがあるのか、さらに深い闇があるのか、皆目見当もつかないが、足を止めるわけにもいかない。 「自分の弱さを恨んでいる。それでも、生きていかなくちゃ……」 胸の奥で繰り返すその言葉が、空虚な部屋に響き、白々しい朝の光が私を包み込む。 こうして、不正の連鎖の渦中で、私は自分が何者なのかを見失いつつも、か細い一歩を踏み出さざるを得ないのだ。まるで誰もいない舞台の上で独り芝居を演じるように、愛想のない人生へ進んでいく姿が、うすら寒い現実に呑まれていく。

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