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序章 波間に消えた男
満ち潮が逆巻く光浦海峡(こうらかいきょう)の断崖。そこから身を投じた男の消息は、一年を経てもなお判然としない。タクシー業界の実力者・合田誠二(ごうだ せいじ)――。 雑誌「海洋輸送ニュース」編集人・**柴田弘之(しばた ひろゆき)**殺害容疑で追われた彼は、拳銃を乱射の末、漆黒の海へ飛び込み姿を消した。そのまま遺体は上がらず、多くの人は「潮に呑まれて二度と出てくるまい」と信じ込んだ。 しかし、逃走から半年ほど経った頃、かつての取引先やタクシーの運転手たちの間で、合田に似た男の目撃談が囁かれ始める。噂でしかないが、裏を取ろうとする者はいなかった。彼が本当に生きているのか、あるいはただの風聞にすぎないのか――海峡の波間とともに、いまだ真偽のわからぬままである。
一方、あの深夜の銃撃で重傷を負った地元ベテラン刑事の藤枝(ふじえだ)は帰らぬ人となった。捜査一課の都築(つづき)警部補は、親友の死という重い痛手を背負いつつ、東京での日常業務に埋没しようとしていた。しかし、夏の終わりも近いある日、都築のもとに一通の封書が届く。差出人は不明。封筒には簡潔な文面が添えられていた。
「合田誠二は生きています。潮満神事(しおみつしんじ)を汚した真の黒幕は別にいる。真実を暴かなければ、さらなる血が流れるでしょう。」
差出人は何者か。無視できない予告めいた言葉に、都築の胸は騒ぐ。藤枝の仇を討つためにも、このまま見過ごすわけにはいかない――そう決意した都築は、再び光浦海峡の町へ赴くことを決めた。
第一章 再訪の地
前年の惨劇から一年。潮満神事を控えた古社・**桜浦神社(さくらうらじんじゃ)**の門前町は、観光ブームによる賑わいを取り戻しつつあった。 都築が降り立ったのは夕暮れ間近の光浦駅。ホームには潮の香りを含んだ風が吹き抜ける。以前と大きく変わらない駅前通りに、彼は一抹の安堵を感じながらも、心の奥底に沈むやりきれなさを抱えていた。 車を手配して桜浦神社へ向かう道すがら、都築は運転手に最近の町の様子を尋ねた。すると、運転手は声をひそめて語る。 「表向きには景気がいいように見えますがね、あの事件で大手タクシー会社(煌星交通〈こうせいこうつう〉)が一時騒ぎになったでしょう。実は、新たな会社が台頭してきて、妙に勢力を伸ばしてるんですよ。どうにも怪しい噂が絶えないんです」 都築は「怪しい噂」とは何かとさらに聞き出そうとするが、運転手は「詳しくは知りません。下手に首を突っ込むと痛い目に遭うって噂ですから」と口を濁した。
第二章 新たなる不穏
桜浦神社に到着した都築を出迎えたのは、地元署の若い刑事、**大迫(おおさこ)**であった。藤枝の後任というが、まだ捜査に不慣れな様子が見てとれる。 「都築さん、よく来てくださいました。実は最近、弁天島の近くで不審火があって、柴田さんの事件を思い出す人が多いんです。地元の記者連中もざわついていて……」 大迫は藤枝の教え子であり、尊敬していた先輩の死を無駄にしないために、この町の暗部を洗い出したいという。都築は彼に例の封書について話し、合田生存の可能性やタクシー業界の新たな黒幕説など、断片的な情報を共有した。 「自分も少し噂を耳にしています。合田の失踪後、**緑陽交通(りょくようこうつう)**って会社が急激に営業拡大してるんです。社長は『笹川(ささがわ)』という男ですが、陸運局との繋がりがやけに太いらしくて……」 潮満神事を間近に控えた光浦の地で、再び“交通業界の闇”が動き出すのか――都築は不安を拭えないまま、大迫とともに捜査を進めることにした。
第三章 封じられた証言
前回の事件で、タクシー会社と陸運局の癒着が垣間見えたにもかかわらず、確たる証拠は闇に葬られていた。合田という“分かりやすい犯人”が海中に消えたことで、全容解明は立ち消えになっていたのだ。 都築と大迫は、陸運局に足を運び、担当官に質問を試みる。だが「我々は何も違法なことはしていません」という形だけの返答に終始し、次第にまともに取り合ってもらえなくなる。新興企業・緑陽交通に関する質問を投げても、「業務提携はごく普通の手続きです。詳しくはお答えできません」で門前払いだ。 さらに、過去に合田と親密だった業界人にも接触するが、ことごとく口をつぐんでいる。合田の“死”が確定していないこともあり、皆が一様に何かを恐れているようだった。 そんな中、大迫が妙な噂を掴んだ。 「藤枝さんが亡くなる直前、ある人物から“合田は操り人形に過ぎない”という話を聞かされていたみたいなんです。その人物は名を名乗らず、証言だけ残して姿を消したとか……」 まるで合田の背後に、さらに大きな存在が潜んでいるかのようだ。都築は藤枝が最後まで追いきれなかった“真の黒幕”の影を感じ取り、再び筆跡のない不気味な封書の文面を思い出す。
第四章 もう一つの弁天島事件
ある夜、大迫が慌てた様子で都築の宿を訪ねてきた。「湖畔にある別の弁天島――旧弁天島と言われる小島で、観光写真家の変死体が見つかった」と連絡が入ったのだ。 前回の柴田殺害現場とは別の島だが、似たような立地、似たような状況。しかも被害者は“業界の不正を追っていた”という噂がある。現場には、前夜に撮影されたと思われるカメラとメモが残されていた。そこには「緑陽交通、陸運局癒着の記事準備中」と走り書きされている。 事件の構図は柴田の死を思い起こさせる。都築と大迫が急行すると、首筋を強く締められた跡が残る遺体の傍には、小型カメラが転がっていた。フィルムを回収し、現像に回すと、そこには真夜中の湖面と、遠巻きに写る不鮮明な人影――そして、タクシーらしき車のヘッドライト――が捉えられていた。撮影時刻は午後十一時半。まさしく、桜浦神社付近が騒ぎに包まれる時間帯と重なる。 「またしても、潮満神事の裏で殺人が行われたのか……」 都築はかつて経験した悪夢が再来したような感覚に囚われる。
第五章 暗躍する影
新たな被害者が出たことで、緑陽交通や陸運局への捜査が再燃する。しかし、彼らの態度は相変わらず頑なだ。むしろ警察上層部から「証拠不十分のまま深追いするな」と牽制が入り、都築と大迫は苛立ちを募らせる。 そんな折、都築のもとに第二の封書が届く。差出人は依然として不明、文面はわずか数行だった。
「真相を知りたければ、神事当日の未明、桜浦神社の裏手に来い。そこに合田誠二の姿がある。新たな殺人が起こる前に、止めるべきです。」
まるで都築と大迫をおびき寄せるかのような挑発。だが、捨て置ける内容ではない。都築は慎重に作戦を練り、神社裏手を深夜に見張ることを決めた。
第六章 再び潮満神事へ
旧暦元旦を迎える深夜、桜浦神社は再び写真愛好家や観光客で賑わっていた。白い狩衣をまとった神官たちが海中に入り、儀式を執り行うさまは相変わらず神秘的で厳かだ。しかし、その陰では一年前と同様、闇がうごめいている――そう感じずにはいられない。 都築と大迫は、封書に示された「裏手」に潜み、双眼鏡で境内や周囲の通りを注視する。すると、黒い帽子を被った長身の男が、人気のない小径へと歩いていくのが見えた。暗がりで顔ははっきり見えないが、どこか見覚えのある体格だ。合田かもしれない――。 二人が追跡に移ろうとしたその時、ふいに背後から鋭い閃光と鈍い衝撃が走る。何者かが閃光弾のようなものを放ち、都築たちの目を晦ませたのだ。煙が立ちこめ、一瞬の混乱が生まれる。辺りが落ち着いたころには、先ほどの男の姿は見えなくなっていた。 「狙われた……やはり何か仕組まれている。」 都築は厳かに進む潮満神事の音色を耳にしながら、必死に視力を戻そうと瞬きを繰り返す。まるで一年前の惨劇の再現を阻止しようと焦る気持ちとは裏腹に、犯人の足取りはまたしても暗闇に消えた。
第七章 埋もれた文書の断片
閃光弾を使った者を捕まえられず苛立つ都築たちの元に、新たな事実が舞い込む。地元紙の記者が、合田の自宅跡から「陸運局との裏取引が示唆される文書の断片」を入手したというのだ。そこには緑陽交通の社長・笹川と陸運局幹部の名前が並び、さらには合田が柴田殺害以前から緑陽交通に多額の資金を流していた可能性をうかがわせる記述があった。 「つまり、煌星交通と緑陽交通は表向きは競合会社でも、裏では繋がっていた……?」 都築は合田という存在が、単なる駒として利用されていたのではないかと推測する。彼が“殺人犯として消える”ことで、より大きな組織の利権を守る。そこには陸運局や政治家も絡んでいるのかもしれない。 この“文書の断片”を裏づける証拠が揃えば、一連の殺人事件の真相に迫れるだろう。だが、記者の話によれば「元の文書は破り捨てられ、大半が判読不能になっていた」とのこと。断片だけでは決定打にはならない。 加えて、都築たちは大きな不安を抱いていた。これを表沙汰にしようとすれば、またしても口封じの殺人が起こるかもしれない――。闇が深いほど、抜け出すのは難しいのだ。
第八章 合田の遺体
そんな折、桜浦神社の近くで漁をしていた漁船が、遺体を引き上げたという一報が入る。検視の結果、それは合田誠二のものだと判明。致命傷と思われる銃創が胸部にあり、死亡推定時刻はごく最近――つまり、昨年の海へ飛び込んだときではなく、この数日のうちに殺害された可能性が高い。 「やはり、あの日の断崖から飛び込んだのは狂言自殺だったのかもしれません。そして、一年ぶりに戻ってきた彼は、何者かに消された……」 都築は複雑な思いで打ち震える。あの夜、合田が海へ姿を消した時点で事件は終わらず、裏で息を潜めていた黒幕にとって“用済み”になった合田は、ここにきて始末されたのだろうか。 「合田が殺される直前、我々を挑発するような封書が届いたことも、全て計算のうちだったのかもしれない……」 闇の存在は凶悪な手段も辞さず、情報を握る人間を次々と葬り去っている。その影はなおも逃げ場なく都築たちを追い詰めようとしているようだった。
第九章 海峡の夜に燃える
合田の遺体が発見された翌日、都築は緑陽交通の社長・笹川がある料亭で陸運局幹部らと会合を持つという情報を得る。大迫と共に張り込むが、彼らは裏口を使ってこっそりと出入りする。問い詰めようにも身分の高い政治家らしき人物を同席させ、ガードも固い。 夜も更け、都築らが料亭から目を離さずにいると、急に爆発音のような轟音が響き渡る。見ると、料亭の裏手から煙が立ち上っている。火災か――。捜査陣が駆けつけると、既に火の手は天井を燃やし尽くし、笹川や幹部たちが逃げ惑っている。 笹川は何とか裏口から逃げ出そうとするも、倒れた柱に行く手を阻まれる。都築たちが救出を試みるが、火勢は強まり、近寄れない。あたりには熱気と煙、割れたガラスの音が乱反射し、見る間に炎は笹川を呑み込んだ。
“口封じ”か、あるいは“内部抗争”か――何者かがこの会合を狙って仕掛けたのかもしれない。笹川と陸運局幹部数名は重傷、もしくは死亡。これで“闇のトップ”と目される人物は、またしても謎のまま姿を隠した。 料亭の炎の赤が、暗い夜空を不気味に照らす。人々の絶叫をよそに、都築は胸の奥底で無力感を覚えずにはいられなかった。「どれだけ追っても、真相は炎とともに消されてしまうのか……」と。
第十章 悲劇の果て
料亭の火災は大きく報道されたものの、肝心の裏取引の証拠は焼失してしまい、要人たちの証言も「思い出せない」「逃げるのに必死だった」と曖昧なものばかり。 合田という“駒”を切り捨てた上層部は、今度は笹川までも焼き払ったのか――あまりに苛烈な手段に、都築は愕然とする。続編のように思われた今回の事件もまた、大筋の構造は同じだ。すなわち、利権を守ろうとする権力者が、邪魔な者を容赦なく排除していく。 最終的に、弁天島で殺害された写真家の件も、動機を立証できないまま「容疑者不明」で捜査は宙に浮く。幾度となく都築が資料を整理しても、点と点が完全には繋がらない。大迫も「黒幕の正体には届かないんですね……」と悔しそうに漏らす。 こうして、二度にわたる“弁天島殺人”は、双方とも確たる解決のないまま終わりを迎えた。まるで大いなる闇に吸い込まれるかのように、証拠も証言も炎と波に呑まれたのだ。
終章 潮影の残響
桜浦神社での潮満神事から数日後、都築は再び上京するため駅へ向かった。立ち止まって振り返ると、あの厳かな社殿や海峡が、まるで何事もなかったかのように佇んでいる。 その光景こそが、藤枝を失い、合田に翻弄され、ついには笹川までも炎に消えた一連の出来事を、静かに飲み込んでしまったかのようだ。 大迫が名残惜しそうに言う。 「結局、僕らは何も守れなかったのかもしれませんね。先輩(藤枝)が命をかけて追いかけた真実も、都築さんがあれほど苦しんだ合田の謎も……」 都築は黙って耳を傾ける。まるで血の通わない大いなる組織の力は、最後まで姿を現さないまま、人知れず歯車を回し続ける。 ホームに汽笛が鳴り響き、到着した列車に乗り込む都築。窓の外に見える海には、薄曇りの空が反射して鈍い光を放っていた。 「……どれほど真実に近づこうと、徹底的に排除されるのが、この国の闇なのだろうか」 かつて柴田が告発しようとした不正、そして潮満神事に合わせて仕組まれた殺意の数々。すべての輪郭は曖昧になり、ただ一つ確かなものは、多くの死者と喪失だけ。 列車が動き始めると、海の彼方に神社の鳥居がわずかに見えた。あの神官たちが海中へ入る神事は、これからも変わらず続いていくのだろう。静寂と伝統に彩られた光景の裏で、誰にも光を当てられない闇が潜んでいるとしても――。 都築は目を閉じ、深く息を吐いた。潮騒が遠ざかっていく。あの夜に聞こえた、悲嘆の声や銃声、そして断崖からの絶叫さえも、今や夜霧の中に溶け込んでしまったかのようだ。 かくして、光浦海峡の波間には、消しきれぬ闇が残響となってさざめいている。遠く離れたとしても、決して拭えない記憶が、都築の胸に突き刺さるように疼いた。
あとがき
一年前の「潮満の刻」で描かれた事件は、つかの間の幕引きを見せたかに思われましたが、その実態はさらに深い闇の中にありました。合田の生死、タクシー業界と行政の癒着、報道や告発者の不審死……それらが複雑に絡み合い、「すべてを解き明かす」ことなど容易ではないという結末を迎えます。 松本清張がしばしば扱ったように、社会の構造的な腐敗や権力の不可視の力は、どれだけ追及してもさらなる闇へと誘い込むばかり。主人公たちの奮闘と情熱が、結果として多くの死を招き、真相は確かな形では残らないという虚無感こそが、清張ミステリーのひとつの特徴でもあります。 本作「潮影の残響」は、前作で芽吹いた問いを改めて問い直す物語です。 「いったい誰が真の黒幕なのか?」 「不正を告発することに、いかほどの価値と代償があるのか?」 そして**「深い闇に挑む者たちの覚悟と、その先にある悲劇をどう受け止めるべきか?」** すべてが曖昧に飲み込まれ、裁かれることのない社会の一端。それでも、どこかで“風穴”を開けられるのではないか――という淡い希望を、読者は都築の姿に見るかもしれません。 しかし、清張作品において、そうした希望は往々にして儚く消え去る運命を辿るのです。光浦海峡の潮騒のように、永遠に途切れぬ低いうねりが、この物語の余韻として鳴り続けるのではないでしょうか。
(了)
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