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以下は、これまでの八作――
『潮満(しおみつ)の刻』
『潮影(しおかげ)の残響』
『潮月(ちょうげつ)の黙示』
『潮闇(しおやみ)の彼方』
『潮燐(しおりん)の楔(くさび)』
『潮葬(ちょうそう)の刻印』
『潮痕(ちょうこん)の顕影』
『潮盟(ちょうめい)の咎標(とがしるし)』
――を踏襲する、第9作目の続編長編です。社会派推理のエッセンスを汲み取りながら、これまでの登場人物や壮大な利権構造、そして未解決の謎がさらに深く展開されます。前作で一瞬だけ届いた「あの声」に端を発し、光浦海峡(こうらかいきょう)と桜浦神社(さくらうらじんじゃ)を巡る陰謀は、いよいよ決定的な局面を迎えるかもしれません。
序章 かすれた声と深まる闇
黄昏が迫る光浦海峡(こうらかいきょう)。夏の名残がわずかに漂う夕空の下、海面は静寂に沈む。 前作『潮盟(ちょうめい)の咎標(とがしるし)』の終盤、捜査一課の都築(つづき)警部補と地元刑事の**大迫(おおさこ)は、非通知の電話を受け、その向こうでかすれた女の声を聞いた。――「わたし……まだ……生きて……」。 失踪した地元紙記者の望月(もちづき)**ではないか、と二人は思い至るが、通話はすぐに途切れ、再び繋がることはなかった。かつて海に沈められたと思われていた彼女が、本当に生存しているのだろうか。 今や、巨大企業・天洋コンツェルンによる国際貿易特区計画が現実味を帯び、政治や行政とがっちり手を組み、新たな段階へ突入しようとしている。古来より伝わる“潮盟”の闇を利用しながら、光浦海峡を牛耳ろうとする動き――しかしその一方で、謎の生存者の声が、再び希望の灯をともすのか、それともさらなる悲劇の導火線となるのか。 海面に溶ける夕陽は一瞬の赤色を残し、やがて深い夜の帳(とばり)が降りる。この地で長く繰り返されてきた血と陰謀の連鎖は、果たして新たな結末を迎えるのか――。
第一章 謎の叫び
翌朝、地元署で緊急通報が入る。桟橋の近くで「人の悲鳴のような声を聞いた」という通報者がいるという。都築と大迫が急行してみると、薄い朝霧に包まれた桟橋には、確かに荒れた足跡が残されていた。だが、人影は見当たらない。 さらに桟橋の端には、古びた記者証の一部が落ちている。かすかな文字が読み取れ、「……月……記……」とある。大迫は息を呑む。「やっぱり、望月さんはまだ……」 都築は周囲を見回しながら、過去に多くの“偽装”や“誘導”が行われてきたことを思い返す。「誘い出すための罠かもしれない。だが、彼女が生きている確率も捨てきれない。いずれにせよ、これだけは大きい手掛かりだ」 しかし、そこへ警察上層部から「桟橋付近での捜索は最小限に留め、港湾拡張の治安維持を優先するように」とのお達しが届く。いつものように捜査を妨げる圧力が背後で蠢く。 「まったく、何度同じことが繰り返されるんだ……」と大迫は苛立ちを噛み殺す。都築も苦い表情で「けれど、その足跡と記者証の切れ端は、我々にまだ捜査の余地が残っていると示している」と言い、踏みとどまる決意を固める。
第二章 安西宮司の提案
一方、桜浦神社では、新宮司の**安西(あんざい)**が襲撃を受け、怪我が癒えぬまま神社運営を続けていた。以前、神事に用いる「幻灯の鏡」は破壊されてしまい、古文書の一部も散逸してしまったが、それでも安西は諦めてはいない。 彼は都築と大迫を神社の奥へ招き入れると、控えめな声で打ち明ける。「実は、神職の中に、古来の“海潮図”を断片的に写し取っていた者がいると聞きました。しかも、その写しを暗号化し、秘蔵しているらしいのです」 それが事実なら、破壊された鏡や散逸した古文書の代わりに“潮盟”の核心に迫る決定的ヒントを得られるかもしれない。 「ただし、彼は神社と深く関わる一族の末裔で、外部に情報を渡すのを頑なに拒んでいるようです。ですが、私もできる限り仲介を試みます。もし真実を求めるなら、きっと無駄にはならないでしょう」 都築は深く礼を述べ、「どうかお願いします。彼らが何を恐れているのか、知る必要があります」と言う。大迫も横でうなずき、「この海峡に蔓延る闇の由来を知ることが、望月さんを救出する鍵にもなるかもしれない」と付け加えた。
第三章 地下水脈での遺体
その夜、漁業関係者からまた通報が入る。工事区域の地下水脈付近で作業をしていた潜水士が、身元不明の遺体を発見したというのだ。都築と大迫が急行すると、現場には天洋コンツェルンの警備員が多数いて、捜査を阻むかのように動いている。 「我々で責任をもって処理します。警察が立ち入る必要はないですよ」 あからさまな排除の姿勢に、都築と大迫は反発を感じつつ「身元確認は我々の権限だ」と食い下がる。何とか遺体を引き上げさせたが、損傷が激しく顔貌は判別不能。男女すら判然としない。 「衣服もほとんど朽ちているが、これは……」と大迫が小声でつぶやく。遺体の腕の部分に、何か文字が書かれた布切れが巻きついているようだ。 見れば、字がかすれてほとんど読めないが、「……月……」とも読める痕跡がある。都築と大迫の胸は震える。「まさか、望月さん……?」 しかし、腐敗状態や体格などの点で、望月記者と完全には一致しない可能性も残る。上層部は「慎重に見て他殺の可能性は低い。捜査不要」という態度だが、都築は足元が崩れるような感覚を覚え、真実を確かめずにはいられない。
第四章 暗い再会
その後、都築のもとに「あなた方に会いたい人物がいる」との匿名電話が入る。待ち合わせ場所は港湾の旧倉庫街。以前から凶行や口封じが繰り返されてきた“最も危険な場所”だ。 深夜、都築と大迫が身を潜めつつ現地へ向かうと、倉庫の薄暗いランプの下に、一人の男が待っていた。それは、かつて日邦建設の秋津(あきつ)が死んだ頃に姿を見せたことのある、**木澤(きざわ)**という人物だった。今は天洋コンツェルン関連の下請け企業に所属しているらしい。 「……お久しぶりです、警部補さん。前にも言いましたが、ここには大きな力が働いています。僕自身、巻き込まれたくない。だけど、どうにも割り切れないことがあって……」 木澤は怯えながらも、奥歯を噛みしめて言葉を続ける。「天洋コンツェルンが“大規模浚渫(しゅんせつ)工事”を来月から本格化させます。そこで、何か『不都合なもの』を海底から一気に取り除こうとしている。それは遺体か、あるいは“潮盟の証拠”かもしれません……」 都築と大迫は息を呑む。木澤は同時に「最近、港湾施設で不審な筒状の鉄材を運び込んでいるのを見た。爆薬ではないかと言われています。目的は、海底を大規模に破壊することかもしれない……」とまで告白する。 「きっと次は、大量の水と爆破で“全て”を洗い流すつもりなのかもしれない。もう時間がないんです……」と、木澤は震える声で吐き出し、足早に立ち去った。
第五章 海潮図の断片
安西宮司の仲介により、都築と大迫は神社の古い家系に連なる年配の神職・**桐山(きりやま)と面会を果たす。渋々ながら桐山は、写し取っていた「海潮図(かいちょうず)」の一部を見せてくれる。 そこには光浦海峡の海底地形が、現代の地図とは異なる形で詳細に描かれている。そして、その片隅に奇妙な文言――「潮聲(ちょうしょう)の盟約に背く者、深き底へ沈め」**という一節が記されていた。 桐山は疲れた声で言う。「これが、いわゆる“潮盟”の戒律を表した文言の一つかもしれません。海峡を利用し、盟約に加わる者は莫大な利得を得るが、背けば容赦なく海へ――。古の時代から、そうして来たのです」 都築は背筋に寒気を覚える。「合田誠二や笹川、秋津など、多くの人間がこの海へ消された。望月記者も、あるいはこの戒律に抵触する存在とみなされて……」 大迫も唇を結ぶ。「もしも今、天洋コンツェルンが“現代版の潮聲の盟約”を完成させようとしているなら、その邪魔者も一掃される。大規模浚渫工事は、その仕上げかもしれない」
第六章 奇妙な電波の断続
その日の深夜、また大迫の携帯に非通知の着信が入る。受話器を取ると、か細い呼吸音が聞こえるだけで、声は発せられない。 「もしもし、望月さん……? 望月さんですか?」 尋ねても返事はなく、雑音が混じるのみ。だが、微かな電波状況から逆探知を試みると、港湾から3キロほど離れた山中の電波塔付近が発信元らしいことが分かる。 都築と大迫は急ぎ山道を車で上り、電波塔周辺を捜索するが、人影はまったく見当たらない。むなしくも宵闇の虫の声だけが響く。 「また引き戻されただけか……。だが、“ここ”に彼女を連れてこられたのは何故だろう」 何かの暗号か、あるいは助けを呼ぶサインなのか。いずれにしても、望月が生きている確率は高まったが、同時に“手の込んだ罠”の可能性も否定できない。二人は慎重に周囲を探りつつ、結局その夜は成果を得られぬまま引き上げるしかなかった。
第七章 市議会議員の失踪
翌日、今度は市議会議員の一人が失踪したというニュースが飛び込む。彼は港湾特区の承認に反対の立場を示していた数少ない議員だった。 家族は「朝、普通に出勤したまま戻らず、連絡も一切ない」と証言。都築が議員秘書に話を聞くと、前夜に「天洋コンツェルンの闇を暴く書類を手に入れた。これでひっくり返せる」と意気込んでいたとのこと。 大迫は険しい顔で呟く。「まさか、またか……。書類を所持した瞬間、闇に葬られるパターンが何度繰り返されたか分かりません」 まるで“潮盟の戒律”そのもの――盟約を脅かす者は、すべて海底へ葬る。都築と大迫は意気消沈しかけるが、今回こそは何としても食い止めなければならないと気を奮い立たせる。
第八章 大規模爆破の予兆
木澤から再び連絡が入る。「浚渫工事の準備がいよいよ始まる。下請け企業の間では『爆薬を大量に使う』という話で持ち切りです。もし成功すれば、湾の地形が大きく変わり、昔から沈められてきた全ての“痕跡”が跡形もなくなるでしょう」 都築はハッとする。「痕跡を消すだけでなく、新しい港湾を造成し、いよいよ本格的な国際貿易特区を押し通すつもりか……」 大迫も勢い込んで言う。「このまま何もせずにいれば、望月さんも市議会議員も、そして潮盟の闇を示す証拠も全て覆い隠される。時間がない……」 だが、上層部に捜査拡大を要請しても「必要なし」の一点張り。都築たちはあくまでも独断で動くしかない。過去にも、このパターンで苦杯をなめてきた。けれど今回こそは――と唇を噛む。
第九章 夜の突入
浚渫工事が始まる前夜、都築と大迫は木澤や安西宮司らの協力を得て、工事現場の隣接エリア――かつて“不審船”が出入りしていた海峡沿いの旧操舵場へ潜入を試みる。 そこには、築きかけの防潮堤の陰で、多数のドラム缶や発破資材が並べられていた。夜間作業らしく、照明が少ない中で数名の作業員が忙しなく動いている。 「ここを爆破の拠点にするのか……?」 都築と大迫が物陰から監視していると、急に背後から警備員らしき男が現れ、制止を呼びかける。咄嗟に大迫が立ち向かうが、相手も複数いるらしく、険悪な乱闘へ。 すると、現場の奥から銃声が一発鳴り響き、都築の脇をかすめるように弾丸が通過する。危うく倒れそうになった都築を、大迫が必死に支え、そのまま暗闇に転がり込んだ。 「……もう退くしかない! ここで捕まれば命が危ない」 都築と大迫は止むなくその場を離脱。闇の勢力の本格的な武力行使に阻まれ、証拠を押さえるには至らなかった。
第十章 謎の声、再び
夜が白み始める頃、傷だらけで神社に身を寄せた都築と大迫。安西が血のにじむタオルを差し出しつつ「大丈夫ですか……」と震える声で尋ねる。 「……間に合わないかもしれない。明日にも爆破が行われ、湾の地形が変わるだろう。手詰まりだ」 都築は唇を噛み、床に拳を打ちつける。もはや打つ手は残されていないかに思えた――そのとき、大迫の携帯が再び鳴り響く。 非通知。深夜と同じように雑音が混じるが、かすれ声が聞こえる。 > 「――た、たすけ……船……小屋……」 乱れた息遣いと、何かを打ち付けるようなノイズ。そして辛うじて読み取れるワードは「船」「小屋」「桟橋」。切羽詰まったかのような声は、やはり女のものだ。 「望月さん……!」大迫は立ち上がる。「桟橋にある船小屋か?」 都築も確信を抱く。「この海峡には古い船小屋がいくつもあるが、以前“漁協が使っていた廃船小屋”があるはずだ。そこに彼女が監禁されているのかもしれない」 もう時間がない。大規模爆破が行われれば、あの辺り一帯も被害を受ける。躊躇している余裕はなかった。二人は傷を押して飛び出す。
終章 犠牲と微かな光
夜が明けきる前、都築と大迫は人里離れた入り江の先にある古い船小屋へ急行する。小屋には錆びついた扉があり、中から物音がかすかに聞こえる。 扉をこじ開けると、暗がりの中で血塗れの布を巻かれた女性が横たわっている。表情は衰弱しきっているが、その顔は――確かに望月記者だった。 「まだ息はある……!」 二人は彼女を必死に抱え起こし、なんとか外へ連れ出す。望月は震える声で何かを呟くが、言葉にならない。 だが、その背後で闇の男たちが現れ、銃を向ける。「連れていくわけにはいかん。おとなしくここで――」 引き金が引かれそうになったその瞬間、遠くの海で大爆発が轟く。浚渫工事の爆破が始まったのだろう。衝撃で地面が揺れ、男たちはよろめき、都築と大迫は望月を抱えたまま小屋を脱出。流れ込んだ土砂や木材が男たちを巻き込み、彼らの姿は朝霧の向こうへ消えた。 数時間後――港湾エリアの爆破は終わり、地形が大きく変わった湾には新たなコンクリートの埠頭が姿を現していた。多くの“痕跡”は海底へ埋められ、あるいは吹き飛ばされたに違いない。 望月は病院に運ばれ、一命をとりとめるも、長らく拘束されていたショックで意識は混濁している。「潮盟」「契約書」「浚渫」「背く者は海へ」――断片的な言葉しか発せられない。だが、生存していた事実は、ほんのわずかな希望だ。 上層部は今回の騒動を「工事中のアクシデント」と片付け、都築と大迫の報告も軽くあしらわれる。国際貿易特区の計画は粛々と進められ、天洋コンツェルンはますます勢力を拡大していく。 桜浦神社の安西宮司や漁協の木島も、「新しい時代が来るのか、それともさらなる闇が続くのか……」と困惑するばかり。少なくとも、望月は帰ってきた。だが、多くの謎と犠牲が解き明かされないまま、光浦海峡の潮は淡々と満ち引きを繰り返す。 “潮聲”の戒律――背く者は深く海底に沈め、盟約を守る者だけが新たな利権を得る。数百年にわたる因習が、現代の大企業と政治を絡め取り、海峡を縛り続ける――。 都築は、救急車で運ばれる望月の背中を見送りながら、苛立ちとわずかな安堵を同時に噛みしめる。まだ終わらない。けれど、一縷の灯火が潰えたわけでもない。桟橋に射し込む陽光は、朝もやをゆっくりと払いながら、かすかに彼らの足元を照らしていた。
あとがき
第9作目となる『潮聲(ちょうしょう)の迷埋(めいまい)』は、前作『潮盟(ちょうめい)の咎標』の結末でわずかに示された「望月記者の生存」という可能性を軸に、さらなる陰謀と事件が連鎖しました。 “潮盟”という古来の密約が、天洋コンツェルンの国際貿易特区計画と結びつき、光浦海峡を丸ごと飲み込むかのごとく大がかりな爆破・浚渫が行われる。その背後には、企業や政治家のみならず、歴史的な闇を担う勢力までが暗躍し、捜査を阻み、証拠や告発者を海へ葬る構図が再び顕在化しました。 しかし、都築と大迫によって望月が辛うじて救出された事実は、本シリーズでも数少ない前向きな要素と言えるかもしれません。彼女が失った時間と記憶をどこまで取り戻し、“潮盟”にまつわる真相を証言し得るのか――それは、次なる物語で明らかになるのかもしれません。 いずれにせよ、海底に眠る秘密や、爆破によって一掃されたかに思える数々の“痕跡”が、完全に消滅したわけではないでしょう。社会派推理の真骨頂として、闇は形を変えながらも残り続け、ほんの一握りの“諦めぬ者”が、かすかな可能性を手繰り寄せる――。 光浦海峡にまた一日が昇り、桜浦神社の境内には微かな潮騒が響く。そこに通う人々の祈りは、血と陰謀に汚れた現実を浄化するにはあまりに小さな声かもしれません。それでも、今作のエンディングでは、生還を果たした望月の姿が、わずかな希望として差し込んでいるのです。 果たして、その希望はやがて“大いなる闇”を崩す力に育つのか。それとも海の深淵に呑まれて途切れてしまうのか――結末は読者の胸の内に、まだ静かに問いかけられたままで終わります。
(了)
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