top of page

静かに流れる翠の谷

  • 山崎行政書士事務所
  • 4月13日
  • 読了時間: 11分




第一章 森への旅路

列車に揺られながら、幹夫は窓の外に広がる山の景色に目を凝らしていた。ローカル線の列車は渓流沿いの山腹をゆっくりと走り、上流に進むにつれて川の水はどんどん澄んでいく。トンネルを抜けるたびに、濃い緑の谷間が姿を現してはまた隠れる。背後にそびえる山々は次第に近づき、その雄大な稜線が幹夫の胸に高鳴りをもたらした。

やがて、小さな無人駅に列車が滑り込んだ。幹夫はカメラバッグを肩に下げて降り立つ。ホームには風にそよぐ草の匂いと、遠くからかすかに聞こえる川のせせらぎだけが迎えてくれた。駅舎もない簡素なプラットフォームから一歩踏み出すと、足元には砂利道が続き、谷間の村へと下っていく小径が見えた。夕方の光が傾き、山の陰影が長く伸びている。

幹夫は村の外れに一軒だけある民宿に荷物を置くと、さっそく川辺へと足を向けた。ここまで来る道中、地図で目星をつけていた撮影ポイントを確かめたかったのだ。山肌を縫うように下りていく細道をたどると、次第に川音が大きくなる。木々の間から涼やかな水の流れが覗き始め、心なしか空気もひんやりとしてきた。

 林間の小径を抜けると、目の前に青々とした森林の谷間を静かに流れる川が現れた。苔むした岩々の間を清冽な水が滑るように流れ、川面には薄暗い森の天蓋を映している。幹夫は思わず息を呑んだ。周囲には人の気配もなく、聞こえるのは水が石を撫でる音と、森の木々が風にそよぐ微かなざわめきだけだ。ゆっくりと息を吐き出すと、胸の奥まで澄んだ空気が満たしていくようだった。

幹夫は川辺の石に腰をおろし、しばらくその光景に見入った。幼い頃に図鑑で見たような山地渓流の風景が、今目の前に広がっている。緑の匂い、水の冷たさ、風の音——五感を通して迫ってくる自然の存在感に、都会での生活で曇っていた感覚が研ぎ澄まされていくようだ。彼はカメラを取り出すと、そっとファインダーを覗いた。夕暮れの柔らかな残光が、水面に揺れる木漏れ日を黄金色に染めている。今はまだ試し撮り程度だが、この瞬間を少しでも映像に収めておきたいと思った。

やがて日が沈み始め、森の中は急速に薄暗くなってきた。幹夫は名残惜しさを覚えつつもカメラをしまう。明日から本格的に撮影を始めよう、と心に決め、来た道を引き返した。背後で川のせせらぎがいつまでも耳に残り、まるで自分を呼び止めているかのようだった。振り返ると、谷間には薄紺の夕靄がかかり始めており、山の稜線にはかすかな残照が宿っていた。その美しさに心を打たれながら、幹夫は足早に宿へと戻っていった。

第二章 清流の出迎え

夜明け前、幹夫は鳥のさえずりで目を覚ました。山の朝は早い。簡単な朝食をとると、彼はまだ薄暗い道を辿って再び川辺へ向かった。三脚と機材を抱え、草露で湿った林道を進むと、冷気の中に森の匂いが際立って感じられる。やがて川岸にたどり着き空を見上げると、谷あいには薄い朝霧が立ち込め、まるで一幅の山水画のような光景が広がっていた​nikon-image.com

彼は川沿いの開けた場所に三脚を据え、カメラをセットした。静まり返った谷間に、かすかな川のせせらぎだけが響いている。東の空が白み始めると同時に、霧がゆっくりと黄金色に染まっていった。幹夫はカメラの録画ボタンを押し、高フレームレートで回し始める。スローモーションにしても滑らかな映像を得るためには、通常より高いフレームレートで撮影できるカメラが必要になる。彼の持ってきたカメラは1080pで120fpsの撮影が可能で、この瞬間を後でゆっくり再生すれば、霧が陽光に溶けていく様子を繊細に捉えられるだろう。

朝日が山の端から顔を出すと、一瞬にして森全体に光が差し込んだ。霧はたちまち消えゆき、代わりに木々の間から幾筋もの朝陽のシャワーが降り注ぐ。幹夫は息を呑んだ。この劇的な変化こそ、自然が織り成す時間の芸術だ。ファインダー越しに、漂う塵が光に照らされてきらきらと舞う様子や、水滴が葉先から滴り落ち川面に波紋を描く瞬間を捉える。肉眼では捉えきれない一瞬も、高速撮影なら細部まで映し出すことができる。幹夫の胸の内に、撮影者としての歓びがふつふつと湧き上がった。

ふと背後で茂みが揺れる音がして、幹夫はハッとして振り返った。一人の老人が川岸に立ってこちらを見ていた。手には渓流釣りの竿を持ち、膝までの長靴を履いた地元の釣り人のようだ。老人は穏やかな笑みを浮かべると、「早起きだねぇ」とゆっくり声をかけてきた。

幹夫は挨拶を返し、自分が映像作品の撮影で来ていることを伝えた。老人は興味深げにカメラと三脚に目をやり、「こんな山奥で映像を撮る人もいるんだなあ」と感心したように頷いた。聞けば老人はこの谷で生まれ育ち、若い頃からこの川で釣りをしてきたという。幹夫が三脚の横で映像を確認していると、老人が近づいてきて川面を指さした。

「あそこ、淵になっていて深いんだ。運が良ければヤマメが跳ねるところが見られるよ」老人は川に詳しいらしく、淵や瀬が交互に続く川の地形や、季節ごとの魚の動きを語ってくれた。幹夫は相槌を打ちながら耳を傾け、自分の知らない渓流の世界に胸を躍らせた。自然地理の知識は多少あったものの、実際に長年川と向き合ってきた人の話には説得力がある。たとえば大雨の後には川筋が微妙に変わること、上流のブナ林が源流の水量を支えていること​esj.ne.jp、川岸には桂や栃の大木が根を張り巡らせ洪水に耐えてきたことなど——幹夫の知識と実体験の言葉が結びつき、新たな理解が生まれていくようだった。

二人が話していると、不意に川面近くを青い光が横切った。カワセミだ。幹夫はとっさにカメラを向けたが、その小さな翡翠色の鳥影は一瞬で下流へ飛び去ってしまった。老人は目を細め、「このあたりじゃ滅多に見られないが、きれいだったろう」とつぶやいた。幹夫は胸の高鳴りを抑えられなかった。今のようなシーンをスローモーションで撮れたなら、どんなに美しいだろうか。彼は改めてカメラの設定を見直し、次に備えて慎重に焦点と露出を調整した。

 森の朝が過ぎ、日が高く昇る頃には、谷間はいよいよ生命力に満ちてきた。空は抜けるような青さを湛え、周囲の木々は濃密な緑に輝いている。川沿いの苔やシダの葉先には朝露が残り、陽の光を受けて宝石のように瞬いていた。幹夫はカメラを肩にかけ、川岸を歩きながら次々とシャッターを切った。先ほど老人に教わった淵をそっと覗き込むと、透き通った水の底に岩魚の姿を見つけた。画面越しにその魚影を追い、岩陰から静かに泳ぎ出る瞬間をとらえてみる。彼の頭の中では、この旅で得られる映像素材をどう繋ぎ合わせ、ひとつの作品として仕上げるか、早くも構想が巡り始めていた。

午前の撮影をひとしきり終えると、幹夫は一旦宿に戻り、撮影データのバックアップを取ることにした。幸いノートパソコンを持参しているので、SDカードの映像を移しつつ、カメラのバッテリーを充電する。パソコンの画面上で先ほど撮影したばかりの映像を少し再生してみた。霧が晴れていく様子、朝陽に舞う塵、飛び散る水滴——どれもスローモーションで見ると現実とは違う表情を見せ、幹夫は思わず見入ってしまった。そして、あのカワセミを捉え損ねたことが悔しくもあり、次こそはと闘志を燃やす自分に気づく。映像クリエイターとしての情熱が、自然の中でさらに掻き立てられていた。

第三章 葛藤と光明

午後になると、夏山特有の入道雲が空高く湧き上がってきた。山の天気は変わりやすいと言うが、まさにその通りだ。幹夫は昼食後、川の上流へと少し足を延ばしてみることにした。老人から上流には小さな滝があると聞いていたのだ。その滝壺のあたりで、また新しい映像素材が撮れるかもしれない。機材をリュックに収め、最低限の荷物だけを持って山道を登り始めた。

杉木立の中を抜け、苔生す岩を踏み越えながら、幹夫は軽快に歩を進めた。日中とはいえ森の中は薄暗く、遠くでホトトギスが鳴いている。谷を隔てた向かいの斜面には、白い岩肌がところどころ露出し、そこに細い筋のような滝がいくつも走っているのが見えた。地質的には石灰岩が多い地域なのだろうか——そんな考察を巡らせる余裕があるうちに、目的の滝へ続く分岐点に差し掛かった。

しかしその頃には、空模様が怪しくなり始めていた。頭上の木々がざわめき、ひんやりと冷たい風が吹き抜ける。幹夫は眉をひそめ、空を見上げた。雲行きが怪しい。遠雷の音もかすかに聞こえた気がした。滝まではあと少しのはずだが、無理は禁物だと彼は自分に言い聞かせる。だが好奇心と創作意欲が、それを上回った。ここまで来たのだから滝の姿だけでも目にしたい、と。

しばらく進むと、岩間から勢いよく水が落ちる小滝が姿を現した。幹夫はその美しさに見入り、カメラを取り出して撮影を始める。シャッタースピードを上げ、水飛沫が空中で静止するような映像を撮ろうと試みた。しかしその矢先、ぱらり、と大粒の雨が一粒、肩に当たった。続いてぽつりぽつりと落ちてくる雨粒が、葉を打ち土を叩く音が周囲に広がった。瞬く間に雨脚は激しさを増し、幹夫は慌ててカメラを防水カバーで包む。滝の近くに岩陰があったのを幸い、彼は急ぎそこへ駆け込み身を潜めた。

激しい夕立だった。雷鳴が谷間に響き渡り、一時は滝の音さえ掻き消すほどの雨が降った。幹夫はザックを抱きしめるようにして、自分の体も岩壁に押し付けて雨風に耐えた。びしょ濡れになったシャツが肌に張り付き、体温を奪っていく。しかし不思議と心は落ち着いていた。自然の中では人間はこれほど無力なのだ、と痛感しながらも、同時に自分が大いなるものの一部になったような感覚を覚えていた。都会の喧騒から離れ、この森の中でただ一人、雨に打たれていると、雑念はすべて洗い流されていくようだった。

どれほどそうしていただろうか。やがて嘘のように雨音が静まり、雲間から一筋の光が差し込んだ。幹夫は岩陰からゆっくりと身を乗り出し、濡れた前髪をかき上げながら周囲を見渡した。森はしっとりと雨に濡れ、葉という葉から滴が落ちている。先ほどまで濁流と化していた滝も、水量こそ増しているものの、その表情は穏やかさを取り戻していた。幹夫は思わずカメラを構え、その情景を映像に収め始めた。

水たまりに広がる波紋、葉から落ちる雫が作る一瞬の水の宝石、立ち上る蒸気が光に透けてゆらめく様——すべてが清新で、儚く、美しかった。彼は夢中でシャッターを切り続けた。雷雨という予期せぬ出来事も、こうしてレンズを通してみると、一つの雄大なドラマのように感じられる。幹夫の中に芽生えていた焦りや不安はすっかり影を潜めていた。自分は今、自然と対話し、その語りかけをフィルムに焼き付けている——その確かな手応えがあった。

すべてを撮り終える頃には、空は再び晴れ渡り、茜色の夕焼けが西の空を染めていた。森からは雨上がりの土と葉の香りが立ち昇り、冷えた身体を優しく包む。幹夫はゆっくりと立ち上がり、荷物を整えて滝に一礼した。今の自分には、やるべきことがはっきりと見えている。心の中でそう呟くと、彼は足取りも軽く森を後にした。

第四章 静寂と未来

夕食時、幹夫は宿の主人や他の宿泊客たちと囲炉裏端で火を囲みながら、今日あった出来事を話した。激しい雨に降られたことも笑い話として語ると、主人は「この時期は夕立が多いからねぇ」と納得したように頷いた。しかし幹夫が滝での撮影について熱く語り始めると、普段は寡黙な主人も興味を示し、地元の山や川のこと、自分の若い頃の冒険談などを次々と語ってくれた。他の客も交え、話題は尽きず、いつしか夜は更けていった。

その晩、幹夫は布団に入ってからも目が冴えていた。頭の中にあの滝の光景や雨上がりの森のイメージがありありと浮かんでくる。寝る前にノートに走り書きしたプロットの断片を思い出しながら、彼は静かに目を閉じた。水の流れ、光の変化、人々との触れ合い——今回の旅で出会った全てが、一つの筋道となって心に刻まれている。そしてそれは、これから形にする映像作品の核心となっていくだろう。自然と映像、そして自分自身が一体となったストーリーを、必ずや紡ぎ出そう。そう心に誓いながら、幹夫はゆっくりと眠りについた。

翌朝、幹夫は早めに宿を発つことにした。名残惜しさを感じつつ荷造りを済ませると、主人と昨夜の老人が玄関先で見送ってくれた。「またおいで。秋の紅葉も綺麗だよ」主人の言葉に、幹夫は笑顔で頷く。老人も「次はもっと良い釣り場を教えてあげるよ」と冗談めかして手を振った。幹夫は深々と頭を下げ、感謝の意を伝えると、村の小道へと歩き出した。

朝の光の中、谷間を渡る風はどこか優しく感じられた。川のせせらぎが遠ざかっていくにつれ、この数日の出来事が走馬灯のように脳裏を巡る。初めてこの谷を訪れた時に抱いた胸の高鳴り、清流に心洗われた瞬間、自然の猛威にさらされて感じた畏敬と静かな充足感——幹夫はそれらすべてをフィルムに焼き付けてきたのだと思うと、静かな誇りが湧いてきた。

列車に揺られて帰路につく途中、幹夫は車窓に目をやった。山あいの風景が次々と後ろへ流れていく。あの川も、森も、今は目に見えなくなってしまったが、自分の中には確かな形で残っている。そしてそれを映像という形で表現できる日が楽しみだった。車窓に映る自分の顔は、来た時よりも晴れやかに見える。幹夫はそっと目を閉じ、耳元で川のせせらぎと風の音を思い返した。それは静かで力強く、これからも彼の創作を支えてくれるだろう。

 
 
 

最新記事

すべて表示
表彰される

「静岡駅前・エレガンスストア物語:三浦さんと杉山さん、表彰される!? 〜“化け始めた二人”の大騒動〜」 ――穏やかな雰囲気だったエレガンスストアに、ある日突然“表彰”の知らせが舞い込み、三浦さんと杉山さんが大騒ぎ! 普段は天然&情熱の二人が“化け始める”とはいったいどういう...

 
 
 

Comments


bottom of page